探偵うんちく「ジンについて」_六本木探偵バーANSWER

ジン(Gin)について

お酒を飲む人で知らぬ者はいないほどスタンダードなお酒、ジン。
非常にスタンダードであるにもかかわらず、その歴史を知る方は意外に少ないのではないでしょうか。
オーセンティックなバーなどで、紳士がジンを勧められづらいのは一体なぜなのか?
お酒ともっと親しくなれば、飲んだ時の味の深みもきっと変わってくるはずです。

もともとはオランダ発祥のお酒

ジンと言えばイギリス発祥の「ドライ・ジン」を指すことが一般的ですが、もともとはオランダ生まれ。
ジンの起源は諸説あるようですが、1660年、オランダの医師が〝植民地である東インド地域で働くオランダ人を熱帯性熱病から守るため"、利尿効果の高い「ねずの実(ジュニパー・ベリー)」をアルコールに浸漬して蒸留した「解熱・利尿用薬用酒」として開発されたとされています。

ただ最近では、11世紀頃にイタリアの修道士が「ねずの実」を主体としたスピリッツを作っていた記録があるのが発祥とされる説が主流になりつつあるようです。
イタリアの修道士が原型を作り、オランダの医師が完成させた、というわけです。
ちなみに当初は「ジン」という名前ではなく、「ジュニエーヴル(ねずの実のフランス語)」という名前で売られていました。

ところでこの「ねずの実」は、酸性の老廃物の除去に威力を発揮するハーブとして、ヨーロッパでは昔から痛風やリウマチなどの関節炎に使用されています。
癖の無いホワイトリカーとの相性は抜群で、ねずの実とセロリの種やなんやらと一緒に漬け込むと、二週間もすれば関節炎に良いリキュールが完成します。

このように、そもそもジンは薬として作られたものなので、当然と言えば当然なのですが、当初は薬局で売られていたのでした。
ただ、さわやかな香りを持った酒として愛飲家達の間で評判になり、「ジュネバ」という通称でオランダ国内で大流行しました。

そしてイギリスへ

17世紀末、国王継承者のいなかったイギリスに、親戚筋であるオランダ王家のウィリアム3世(オレンジ公ウィリアム)が迎えられることとなりました。
この時に、ウィリアム公が故国の酒として「ジュニエーヴル」をイギリスに持ち込んだのです。
(この少し前、第3次英蘭戦争の頃に「ジュニエーヴル」の味を覚えたイギリス兵が、オランダから持ち込んでいたという説もあるようです)

ウィリアム公は即位後間も無く、自分が大好きな「ジュニエーブル」をもっとたくさんの人に飲んでもらおうと、フランスから輸入するワインやブランデーの関税を大幅に引き上げて、さらにビールの関税も大幅に引き上げました。
もともとイギリスの水質は悪く水は煮沸しなければ飲めなかったため、この頃のイギリス人は、ビールやワインをよく飲みました。
ジェームズ1世の時にワインが値上げされたため、一般労働者はビールしか飲む余裕がなくなっていました。
そしてそのビールでさえ値上げ…安くて強い「ジュニエーブル」が大流行するのは、(ウィリアム公の狙い通り)当然の流れだったのです。
この大流行を機に、「ジュニエーヴル」はその名前を縮めて「ジン」と呼ばれるようにもなりました。

「ジン時代」の到来

18世紀にもなると、ジンは大流行…というと言葉は良いけれど、決してそんな良いことばかりではなく。
ウイリアム公の死後即位したアン女王も、ロンドン周辺で生産される蒸留酒の専売を廃止したりして、誰でも蒸留酒が作れるようにするなどジンの普及に努めました。
ジンは簡単な設備で製造可能だったため、八百屋や雑貨屋などでもジンが販売されるようになりました。
様々な店でジンを売るようになったことから、居酒屋の商売を圧迫するようになり、ジンの値下げ合戦が始まります。

当時の居酒屋には、「ほろ酔いなら1ペニー、泥酔なら2ペンス」といった看板が堂々と掲げられました。
(※本当に本当に〝安さ"の参考までに、1ペニーは1.33円という記事をどこかで見たので、そうすると、僅か1円でジンが飲めたことになります。)
こうした 「ジン酒場」 はロンドン全域にあっという間に広まり、6千軒以上になったといいます。

労働者にとって、ビールやワインは関税が引き上げられたことで高価な飲み物となり、手が出せなくなっていました。
けれどジンなら、働いて1ペニー分稼ぐか、他人から恵んでもらえれば、誰にでも手が届きました。
このことからジンの生産高・消費量はあっというまに増え、本家オランダを凌ぐようになりました。

ロンドンだけでも、ジンの平均消費量は一人あたり(子供も含めて)、一週間で2パイント (約1リットル)。一年間で14ガロン (約63リットル)。
もっと分かりやすくすると、ジントニックを一週間に25杯程度。一日4杯くらい飲んでいたという計算になります。
ロンドン総市民が「酔っ払い」状態。
そしていつしかジンは「酔っぱらうためのお酒」として扱われるようになります。
アルコール中毒患者や泥酔者の激増が社会問題になり、ジンの飲み過ぎて死ぬ人もいました。

労働賃金の支払いの代わりにジンを出されたという話も残っているようです。
当時のイギリスは救貧法の改正がなされていた時期でした。
救貧法とは、現在の日本の生活保護を作る際影響を受けたとされる法律です。
パンの価格をもとに基本生活費を算出し、この基本生活費に収入が届かない家庭には、その差額分を補填するというものです。
博愛精神から生まれたものですが、反作用として、企業家たちが労働者の給与を切り下げだしたのです。
差額を救貧費で埋めてくれるのですから、当然と言えば当然です。
労働賃金は下がる一方、ストレスもたまるでしょう。
その負の螺旋による疲れを癒してくれるジンが当時どれだけの人の心を癒したか。
そして溺れさせてしまったのか、当時の状況を知れば知るほど悲しい気持ちになります。
ジントニックのコラムで「労働者が飲む、いわゆる安いお酒」だったとありましたが、この頃の世相が大きく関係しているんですね。

この頃のジンにまつわる、象徴的な事件があります。
1734年、「ジュディス・デュフォー」という女性が、自分の赤ちゃんを殺した罪で処刑されました。
この話の流れでお分かりだと思いますが、動機は「ジン」です。
ジンが飲みたいけれどお金が無かった彼女は、まずは自らの赤ん坊を貧民院に預けます。
そして支給してもらった衣服を着た赤ん坊を貧民院から再び引き取り、衣服をはぎ取って売り払い、得たお金でジンを飲みました。
彼女は衣服をはぎ取った後の赤ん坊を絞め殺し、側溝に捨てました。

他にも、ジンの飲み過ぎで育児放棄する女性、赤ん坊を売りとばしてでもジンを飲むなど、信じられないような母親が続出します。
ジンは俗名で「Mother's Ruin(マザーズルーイン=母親失格)」と呼ばれるようにもなってしまいました。

社会風刺画家であるウイリアム・ホガースは、当時の状況を描いた「ジン・レーン(ジン横丁)」という木版画で残しています。
木版画の中に描かれているのは、「酔っ払った母親の腕から赤ん坊が地面に落ちている」、「泥酔者が、別の赤ん坊を鉄串で突き刺している」、「女が持ち上げられ、棺桶の中に入れられようとしている」、「屋根裏部屋で、男が首を吊っている」、「大工がジンを買うために、道具を質に入れようとしている」、「〝ジン・パレス"(豪華酒場:ジンの樽がいっぱいに置かれた、納屋のような場所)の前で、母親が赤ん坊の喉にジンを流しこんでいる」などです。
先に書いた看板のうたい文句も「ほろ酔いなら1ペニー、泥酔なら2ペンス、棺おけの藁なら無料です」となっていたとか・・・。
ジンによって増えた中毒者が犯罪を増やしているという皮肉を描いていたようです。

「ジン法」制定

高くなりすぎた「ジン」の人気に、さすがにもう黙っていられなくなった英国政府。
対応策として、『ジンの税金を引き上げる』、『免許税を納めた酒場以外でのジンの販売を禁止する』などを盛り込んだ「ジン法」を成立させました。
ただ当時の貨幣では超高額でだったので2つの蒸留所しか税金を支払っていなかったようですが、「ジン法」によってジンの消費を規制しようとしたのです。
これによってジンの消費を抑え、風紀の粛正にいくぶんかは貢献しました。
ところがこの法律に反対した民衆が、暴動を起こします。 この暴動は30年間も続きました。

ようやく登場「ドライ・ジン」

これまでの「ジン」は祖末なポットスチル(単式蒸溜器)でつくられていたため、雑味が多かったのですが、19世紀になって 「連続式蒸留器」 が発明されると、イギリスのジンは口当たりの軽いタイプのお酒に生まれ変わりました。
これが「ロンドン・ドライ・ジン」です。

アメリカでカクテル・ベースとして

「ドライ・ジン」はその口当たりの軽さから、カクテルベースとしてアメリカでも徐々に紹介され始めます。

しかし19世紀、アメリカで「禁酒法(酒類製造、販売及び運搬禁止法)」が施行。
宗教上の理由と、飲酒による労働力定価という経済的な理由で制定されたようです。
禁酒法では「買う」「飲む」は禁じられていないものの、製造や販売・運搬を禁止にすれば飲む量は減るだろうということだそうです。
イギリスからも闇ルートでジンは送り込まれていましたが需要が追い付かず、「バスタブ・ジン」と呼ばれる自家製の粗悪なジンが多数出回ることとなります。

禁酒法が成立してから、「アル・カポネ」に代表されるマフィアによって「もぐりのバー」ができ、密造酒や酒の密売が横行しました。
ちなみにマフィアは警察や裁判官などを買収していましたから、罪を問われることはなかったそうです。

そしてこの粗悪なジンを飲みやすくする必要から、どんどん新しいカクテルを生み出し、爆発的なカクテルブームが起こりました。
20世紀に入ると、とくにマティーニのドライ化において重要な存在となりながら、世界的なスピリッツへと成長していくこととなったのです。

こうしたジンの歩みから、

「オランダ人が生み、イギリス人が洗練し、アメリカ人が栄光を与えた」

と言われています。

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